伊勢新九郎になりたい。

  • 2020/07/31 更新

伊勢新九郎になりたい。

このページは小野 晋一郎が書きました

こんにちは!小野です。今日は私の名前の由来を少し深堀してご紹介させていただきます。
とてもつまらない内容かもしれませんが、お付き合いくださいますようお願いします!!

私の名前は小野晋一郎。
この名前、年を重ねるほど気に入っています。というのも私の晋一郎という名前には意味が込められていることを父親から聞いたからです。
その意味とは大きく2つありました。

1つ目の意味は日本の
戦国史上において史上初の戦国大名となった北条早雲の名である「伊勢新九郎」の新九郎からとった名であるということ。
2つ目は新九郎の「新」を「晋」に変換し、中国の王朝の一つ、280年に呉を滅ぼして三国時代を完全に終焉させた後の国名に変更され、大きく進めという意味が込められています。この思いを聞いてから、少しでもこの名前のような立派な人間になりたいと思うようになりました。
今日は一つ目の意味である北条早雲(伊勢新九郎)について調べてみます。

北条早雲は、
浪人からのし上がり、戦国大名にまでなった人物として下剋上を象徴する存在として有名です。
日本の戦国史上において初の戦国大名となった九郎は年月日は諸説あり不明です。しかし、大器晩成型の武将で大変長生きされていた調べがあります。


新九郎が歴史の表舞台に出るきっかけとなった応仁の乱

1467年(応仁元年)に室町幕府の管領であった畠山氏と斯波氏の家督争いによる応仁の乱が起こりました。
 この頃、新九郎は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟である足利義視に仕えていました。後に戦国時代の到来する要因の一つともされるこの争いは、やがて後継者問題をめぐる大きな争いにまで拡大していき、全国的な戦乱となります。この事態に当時宮仕えをしていた新九郎のいる京都は壊滅的な被害を受けており、多くの民たちがその犠牲になっていました。しかし、苦しむ民たちに将軍も、主である足利義視も自らの保身ばかりを優先し領民たちに手を差し伸べることはありませんでした。1477年(文明9年)まで11年続いたこの内乱は収束後にも各所に大きな被害をもたらし、幕府もその例外ではなく権力・政治力を維持する勢力も著しく低下することになりました。一連の一部始終を、その勢力下で目の当たりにしていた新九郎は、家柄も現在の地位も、そして俗世も捨て去り僧となりました。

新九郎の表舞台

伊勢新九郎が本格的な歴史の表舞台に登場してくるのは、駿河の守護大名・今川義忠の死後のことです。
その頃仏門に入り禅の修行をしていた新九郎は、俗世に戻り幕府の申次衆(もうしつぎしゅう)※室町幕府の職名の1つ。
の職についていました。今川家の家督争いが起こっている駿河に新九郎は行き、家督を継ぐ予定である龍王丸が国を治めることができる年齢になるまで小鹿範満に守護は任せるという形で一旦は騒動を落ち着かせました。
数年後、龍王丸が成人(当時は15歳だった)に達してもなお、範満は家督を返上することはなく権力を揮っていました。
この事態に幕府の奉公衆となっていた新九郎は再び駿河に下向し、戦をもって龍王丸を今川家当主に据えることに成功しました。
その後、龍王丸は今川義元の父となる人物となります。

戦国期の幕開け

新九郎は家の騒動を収めた功績により興国寺城(城)を与えられ、その後も卓越した戦略と戦術により武功を重ねていきました。
1493年(明応2年)新九郎は、伊豆・足利館を襲撃し、茶々丸を討ち取り、伊豆を奪うことに成功します。
この一件は伊豆討入りと名を残し旧勢力が一掃され新興勢力が勃興していく下剋上の代名詞となりました。
伊豆韮山城を居城に据え、伊豆を治めた新九郎はこれまで横行していた兵による領民への略奪行為などの乱暴狼藉を厳しく禁じ、重い税の取り立てを撤廃し、四公六民という収穫の四割が租税で六割が収入となる制度を定めたりと、少しづつ世を平にしていく制度を築いていきました。
次に、伝染病などの病に苦しむ民たちにも手厚い看護を施すといった善政を敷きました。
そうすることで、これまで茶々丸による悪政に苦しめられていた民たちは歓喜し、新九郎を慕い従うこととなります。

徐々に勢力を増す!小田原城の奪取・相模国へ

伊豆地域を平定し、一国の主となった新九郎は、着々と国力を増強していきます。関東への進出を計る新九郎は小田原にて、相模国の小田原城・城主である大森藤頼を巧みな戦法で油断させ、警戒を解き小田原城を奪取することに成功しました。新九郎は戦をせずに国を平定しようと策を練りました。親交を深めるような書状や貢物を贈り、城主を信用させたところで新九郎は「鹿狩りをしていたら鹿が小田原に逃げて行った、申し訳ないが獲物を伊豆へ追い返すため小田原城の裏手に動物を射手のいる場所まで追い込む役割の者を入れさせてはいただけないだろうか」との書状を送ります。
新九郎のことを用していた城主は、快くこれを承諾しました。そして新九郎は射手に扮した精鋭数百の兵を箱根山から、小田原城の裏手へ差し向けました。
その夜、別の一体が城に火をかけ攻め入るのを合図に、射手に扮して伏せていた裏手の兵も火を放ち一気に攻め込みます。こうして新九郎は不意を突かれ大混乱に陥る小田原城を陥落させました。これにより新九郎は相模国の西半分を勢力下に収めることになりました。
多くの反乱や敵対勢力がありましたが、相模国の全域を平定するまでになりました。

 

幕府からの独立、名を早雲へ

1518年室町幕府の支配から独立し、事実上、自らが統治する国の政治を行っていくという独立宣言を行いました。
日本初の戦国大名が誕生した瞬間です。同年、新九郎は嫡男の氏綱に家督を譲り、翌年の1519年に死去したとされています。
享年には諸説あり、64歳とも88歳であったとも言われています。
氏綱に家督を譲ってから死去するまでの間、伊勢新九郎は余生を伊豆国・韮山にて静かに送ったと云われています。
新九郎の館からは富士山を臨むことができ、富士山を覆うように流れる雲を眺め、新九郎は自らを「早雲」と名乗るようになったといわれています。

これが私の名、伊勢新九郎、最後は北条早雲となった私の名の由来です。
歴史って、楽しいですよね!

私もみんなをスポーツで元気にして日本中を笑って元気にできる「大名」になります!
最後までお読みいただきありがとうございました。